blog庄司園長の部屋

旅立ちの日に

卒業式シーズン真っ只中、今日もこれから地元の小学校にお祝いに行かせていただきます。ここ数年、井上常務の代理として、日ごろお世話になっている学校の卒業式に参列させていただいていますが、その度に、家族からは、白い目で見られています。何故かと言えば、わが子の卒業式にはほとんど行っていないからであります。息子の卒業式は、中学の時に一度、娘に至っては、「一生来ないつもりか」と言われ、高校の卒業式に行っただけで、入学式には、一度も行ったことがありません。「わが子の卒業式に行かないで、他人の子の卒業式に行くのか」と言われるので、今日は何も言わずに家を出てきました。

さて、グループホームが制度化される以前、施設から入所される方々が巣立って行くことを「社会復帰」と呼んでいた時代の話になりますが、当時の「愛護」誌(現サポート)に群馬県の薫英荘荘長野口正信先生が、「施設利用者の旅立ち」について寄稿されていました。「我が子が家を巣立って行く時には、白いギターやラジカセなど様々な物を持っていく。それなのに施設から出ていく利用者は、風呂敷包み一つだけだ。それではあまりにも寂しい過ぎる……」という出だしで、施設から出て暮らすための生活の場として、制度外で地域ホームなどを作られていること、そして、ただ単に施設を出て暮らすだけではなく、より豊かな暮らしを築くため、施設や生活寮で暮らす方々でブラスバンドを行っているというような取り組みが紹介されていました。そんなすばらしい施設を見てみたい、そして野口先生のお話をお伺いしたいと思いから、昭和63年に向陽園の職員6名で薫英荘にお邪魔し、平成元年には、野口先生に山形においでいただき、職員研修会を開催しました。講演は、「社会復帰と社会参加について~グループホームを中心に~」というテーマでお願いしたのですが、講演の前の打ち合わせで、「山形では、まだ社会復帰という言葉を使うのか」というご指摘がありました。県内でも授産施設を中心に、就職が決まり施設を出ていくという方はいらっしゃったようですが、当時はまだ、「依存的自立」という考えがなかっただけに、研修担当者と2人で、目を白黒させていました。先生は、薫英荘をはじめ様々な資源を整備するのに、大変ご苦労されたようで、当日は、奥様を労いたいとのことで、お二人での来県でしたが、懇親会の際に、それ程までに情熱を注がれるのは何故かとお聞きしたところ、著名な先生の名をあげ、「〇〇の考えは間違っている。自分はそれを実践を通し、立証していきたいんだ。」と熱く語ってくださいました。

当法人としては、12か所目のグループホームが間もなく完成します。今回は、当法人としては初めての上山市でのホームになるため、上山市周辺の方に入居していただく予定です。旅立ちの日に、私たちはどれだけの荷物を用意し、送り出せるのでしょうか。私たちの新たな課題です。