blog庄司園長の部屋

グループホームが多くなることを願って

市内のとある地区の民生委員の方々に「障がい」について、お話させていただくことになり、先々週より様々な資料を取り出し、にらめっこの毎日です。

平成25年度の「障がい白書」によると知的障がいを持つ方々が施設入所している割合は、23.4%だそうです。精神障がいを持つ方々については、施設入所や病院に入院している割合は、10.1%で、身体障がいの方々の割合が、2.4%ですので、知的障がいを持つ方々が施設に入所する割合が際立って高くなっており、知的障がいを持つ方々の4人に1人は施設での生活という状況です。

できるだけ多くの方々に地域での生活をしていただきたいと思い、当法人では、グループホーム、ケアホームを開設してきましたが、山形県内のグループホーム、ケアホーム数は、やっと200か所を超えたところです。最近は、日中系サービスを中心に障がい福祉サービスを行っている事業者より、ホーム開設についての問い合わせが多くなっています。ホームの数が少しでも多くなればと思い、これまで当法人で取り組んできた事柄や情報をできるだけオープンにし、お伝えするようにしておりますが、現在の報酬体系では、ホーム1件だけの運営では、収支がマイナスになるため、ホーム開設には、慎重にならざるを得ない状況です。利用する方々のためにと何度もシュミレーションをやり直し、訪ねてきてくれますが、今回国より出された報酬案は、そうした事業者の意欲を削ぐものです。

障がい者自立支援法が施行された時、当法人では、「総論賛成、各論反対」という立場で、県内でもいち早く入所施設の新事業体系への移行に踏み切りました。「職住分離」を推し進めるという意味で、平成13年度より当法人でも施設外への日中活動の場の移設を行ってきましたので、日中と夜間を分けるという考え方は賛成です。しかし、報酬の配分には、大きな疑問があります。だいぶ是正されてきたのかなと思ってはいますが、現在の報酬体系では、夜間、ケアホームで生活し、日中は生活介護事業所で活動する人の場合、報酬の比率は、「夜間 3:日中 7」の比率になります。この中でケアホームだけで職員のローテーションを組むことは不可能です。比率を同等にしてもらうのが理想ですが、せめて「夜間 4:日中 6」くらいにしてもらわなければ、運営は困難ですし、新たにホームを開設しようという事業者も増えてはいかないのではないかと思います。

今度のお話には、民生委員の方をはじめ80名くらいの関係者がお集まりになるようです。住民の反対により、ホームが開設できないなど言語道断ですが、少しでも地域の方々に障がいを持つ方々のことを理解していただけるようお話しさせていただければと思います。

園長の部屋 第1回

向陽園の庄司と申します。ホームページがリニューアルされるにあたり、「園長の部屋」を井上常務から引き継ぐことになりました。園長職を拝命し、1年が経とうとしていますが、井上総合施設長から園長職の引継ぎを受けている時のような緊張を感じながらパソコンに向かっています。井上総合施設長には到底及びませんが、井上総合施設長のブログ「行雲流水」をお読みになった後に、立ち寄っていただければ幸いです。

はじめてのブログですので、少し自己紹介がてら家族のことを記させていただきます。生まれは酒田市で、現在49歳、後1月ほどで50歳です。中学生の時に、酒田大火に被災し、実家は、酒田市の郊外に移りましたが、元々は商店街に家があり、祖父が靴の製造と修理を行っていました。腕の良い職人でかなり靴の製造依頼や修理の依頼があるのですが、根っからの道楽者で、天気が良ければ、岸壁に釣りに行き、魚釣りをしたり、幾らかのお金が入ると骨董屋に行ったり、釣具店に行ったりで、一向に仕事をしませんでした。学校から帰ると、お客さんに祖母が謝っており、祖父を探しに行かされることもしばしばでした。そんな祖父なので家族からの受けが良いわけがなく、どちらかと言えば疎まれた存在でしたが、どういうわけか、私は馬が合い、家にいる時には、煎茶道さながらの出し方で、お茶を入れてもらい、話をしていました。足が不自由で外では杖を突き、家の中での移動は這ってという状態でしたが、足のことについては、祖父自身から聞いたことはありませんでした。祖母の話では、学校時代に、級友の喧嘩の仲裁に入り、ナイフで刺されたのが原因だったようです。お菓子屋さんの次男坊で、東京に出て物書きになりたいと思う、文学青年だったという話も聞いたことがありますが、足が不自由になったため、靴屋に修行に出されたようです。
江戸時代は、身分制度が厳しく、「士農工商」の下には、「えた、非人」などと呼ばれる階級があったようです。司馬遼太郎氏の「胡蝶の夢」の中にも、そうした人たちが登場しますが、寺や墓地の側に住居し、死体の処理や死んだ牛馬の始末をしていたため、革製品の仕事をしていた人も多かったようです。酒田は、西回り航路の中継地点として、関西の影響を色濃く受けた街ですが、身分差別もかなりあったようです。足が不自由だった祖父が「靴屋」になったのも、そんな意味合いがあったのでしょうか……。
「身体障がい者福祉協会」からの大会の案内や様々な冊子が届いていたようですが、封筒を開けることはなく、また会合に参加することもほとんどなかったようです。身障手帳も持っていたのですが、生前に見たことは1度もありませんでした。また、腕の良い職人として、新聞に取り上げられたこともありましたが、「靴屋」になったことを誇りとするような言葉を聞いたことも記憶にはありません。今になって思えば、障がいを祖父は受容してはいなかったのではないかと思いますし、靴屋として生きることにも……。

靴を作るという仕事、靴を直すという仕事は、とても大切な仕事です。しかし、障がいの有無で職業が決まってしまうとしたら、それはとても辛いことです。障がいがある人も、ない人も自分らしく生活していける社会を作っていきたいものです。