blog庄司園長の部屋

園長の部屋 第1回

向陽園の庄司と申します。ホームページがリニューアルされるにあたり、「園長の部屋」を井上常務から引き継ぐことになりました。園長職を拝命し、1年が経とうとしていますが、井上総合施設長から園長職の引継ぎを受けている時のような緊張を感じながらパソコンに向かっています。井上総合施設長には到底及びませんが、井上総合施設長のブログ「行雲流水」をお読みになった後に、立ち寄っていただければ幸いです。

はじめてのブログですので、少し自己紹介がてら家族のことを記させていただきます。生まれは酒田市で、現在49歳、後1月ほどで50歳です。中学生の時に、酒田大火に被災し、実家は、酒田市の郊外に移りましたが、元々は商店街に家があり、祖父が靴の製造と修理を行っていました。腕の良い職人でかなり靴の製造依頼や修理の依頼があるのですが、根っからの道楽者で、天気が良ければ、岸壁に釣りに行き、魚釣りをしたり、幾らかのお金が入ると骨董屋に行ったり、釣具店に行ったりで、一向に仕事をしませんでした。学校から帰ると、お客さんに祖母が謝っており、祖父を探しに行かされることもしばしばでした。そんな祖父なので家族からの受けが良いわけがなく、どちらかと言えば疎まれた存在でしたが、どういうわけか、私は馬が合い、家にいる時には、煎茶道さながらの出し方で、お茶を入れてもらい、話をしていました。足が不自由で外では杖を突き、家の中での移動は這ってという状態でしたが、足のことについては、祖父自身から聞いたことはありませんでした。祖母の話では、学校時代に、級友の喧嘩の仲裁に入り、ナイフで刺されたのが原因だったようです。お菓子屋さんの次男坊で、東京に出て物書きになりたいと思う、文学青年だったという話も聞いたことがありますが、足が不自由になったため、靴屋に修行に出されたようです。
江戸時代は、身分制度が厳しく、「士農工商」の下には、「えた、非人」などと呼ばれる階級があったようです。司馬遼太郎氏の「胡蝶の夢」の中にも、そうした人たちが登場しますが、寺や墓地の側に住居し、死体の処理や死んだ牛馬の始末をしていたため、革製品の仕事をしていた人も多かったようです。酒田は、西回り航路の中継地点として、関西の影響を色濃く受けた街ですが、身分差別もかなりあったようです。足が不自由だった祖父が「靴屋」になったのも、そんな意味合いがあったのでしょうか……。
「身体障がい者福祉協会」からの大会の案内や様々な冊子が届いていたようですが、封筒を開けることはなく、また会合に参加することもほとんどなかったようです。身障手帳も持っていたのですが、生前に見たことは1度もありませんでした。また、腕の良い職人として、新聞に取り上げられたこともありましたが、「靴屋」になったことを誇りとするような言葉を聞いたことも記憶にはありません。今になって思えば、障がいを祖父は受容してはいなかったのではないかと思いますし、靴屋として生きることにも……。

靴を作るという仕事、靴を直すという仕事は、とても大切な仕事です。しかし、障がいの有無で職業が決まってしまうとしたら、それはとても辛いことです。障がいがある人も、ない人も自分らしく生活していける社会を作っていきたいものです。